三つ編み

三つ編み

三つ編み

2019年の夏、名古屋では「あいちトリエンナーレ」という芸術祭が開催されていた。
開催初日に行きたかったんだけど、ちょっと抜けられない所用があって行けなくて、でも絶対これは早くいかないと見れなくなると思った企画展があって、昼休憩中にスマホニュースを見たらやっぱり「表現の不自由展」は早々にクローズしそうな気配だった。

渦中の平和の少女像に紙袋をかぶせた人がいるという報道を見た。なぜそんなに敵視をむきだしにするのか。女の頭に紙袋をかぶせるなんて、暴力そのもの。直感でわかる。すごくその少女像が見たいと思った。安い航空券とホテルを探して、3日後とかそれくらいに私はソウルにいた。

弘大の戦争と女性の戦争博物館に、少女像があった。思ったよりもちいさくて、ちょこんと座っていた。ぱつんと切り揃えられたおかっぱと前髪の幼い印象だけど、だけどきっと実際はもう少しお姉さんな年齢の女の子、といったところか。横に空席の椅子があって、連帯を示すために腰掛けることができる。本当は座りたかったけど、一人だったから恥ずかしくて、かばんに入れていた「三つ編み」を置いた。

「三つ編み」は、理不尽なシステムと自分を縛る運命を前に、インド、イタリア、カナダの3人の女性が髪を介在して、人生を前に進める話。不可触民の母娘の信仰心に胸を打たれる。母の娘に対する愛情が強い。夫に嘘をついてでも、もう二度と会えないとわかっていても、土地に残した彼がどんな仕打ちに合うかわかっても、母は自分のような思いを娘にさせたくなかった。それは、不可触民であることに加えて女であることで二重に苦しんでいたからだろう。搾取されて屈辱を味わっても、「こんなめにあわされるのは不当だ」という怒りが消えないところが印象的。怒りって、飼いならされると消えるんだよね。いつまでも持っているとしんどいから。怒っても伝わらないから。

傾いた家業を救うために望まない結婚を強いられそうになるイタリアの女性。家族で助け合うって、そういうことなの?韓国のこの少女も、家族のため、地域のため、といって供出されたのだろう。植民地支配されている国の家父長制社会で、女にどれだけ自己決定権があっただろうか。男性性を抑圧された植民地の男たちに、従属的な立場に置かれた植民地の女たち。軍隊という超暴力的な装置に抑圧され続ける宗主国の兵隊が、彼女らを丁寧に扱えたはずがない。自分が宗主国の男から受けた屈辱を、植民地の男に話せるか。痛みを共有して一緒に怒ってくれると思えないから、責められるだろう無視されるだろう、結局モノ扱いされて自分がもう一度傷つくとわかっているから、口をつぐんだのだろうと想像する。

2017年の夏にフランスでベストセラーになったこの本の女性は黙らない。70年を超えて女性たちが声を上げていて、でも日本では少女像はいまだに紙袋をかぶせられていて、いったい何なんだ。

レティシア・コロンバニ、斎藤加津子訳『三つ編み』早川書房、2018年)