女教師たちの世界一周 ——小公女セーラからブラック・フェミニズムまで
まえがきが最高。著者は1980年代には公立中学で先生をしていたのだけど、そこで「わきまえない女教師」に出会う。このエピソードがかっこいい。周囲をフィジカルな力で支配することの愚。それとは真逆のアプローチをとった女性の先輩の「女教師ぶり」に心底感動した、とある。2010年代に女教師の仲間入りをしたわたくしとしても、わきまえない姿勢を学びたい。
子供の頃に読んだ『小公女セーラ』や『赤毛のアン』には女性の先生が登場する。前者の先生は超意地悪だった。アンは、すぐに結婚した親友のダイアナとは違って、男子に混ざって進学するし、志半ばで帰郷したのちは学校の先生になる。どうやら、産業革命後に地位が向上させていったミドルクラス女性は、自分の能力や受けた教育を生かして自立する道を教職に見出したらしい。その道の途中に彼女たちの学校があった。
海外へ出て行った女性たちの話も面白い。ポストややりがいを求めて、女教師は植民地へ飛び出したが、彼女らは往々にしてその土地の生徒たちに差別的なまなざしを向けていた。「わたしは男に負けない」「イギリス本国に負けない」こういうプライドが、目の前の生徒や文化を尊重する態度を曇らせる。というか、宗主国と植民地、教師と生徒、といったようなそもそもの権力構造の強者の側に自分がいることを自覚していないと、誰でも簡単に失敗する気がする。この関係性ってその場その場によって変わるから。のちに、こういった女教師に傷つけられたり、または励まされた経験のある少女が、向上心を持って女教師を志す。知的好奇心のバトンが渡される感じがする。学校って保守的なシステムだなと日々思うけど、それでもここで学ぶことは未来を自分のものにすることになるはずだと信じてる身としては、女性教員の歴史や活躍は興味深い。
「女にやれっこない」と思われていた学問を女性が修めることは、わきまえない行為だったのだろう。ただ、男と同じような方法でふるまうことは、唯一の方法ではない。
ある女子生徒が、男女合同の体育の授業で、自分がバッターボックスに立った時、守備の男性生徒が近寄ってきたことにイラっとしたから特大のホームランを打って黙らせた、という話をしていた。まわりの女子生徒は「おおー」と歓声を上げていた。私もそういうタチの人間だったのだけど、ここ数年考えを変えつつある。常に私が男子の基準に合わせてあげる必要ってあるのかしら。スポーツは身体能力の性差が出るから難しいけど、女性は男性と同じような働く方をしてパフォーマンスをしないと評価されない、そこまで露骨じゃなくても、彼らが無言のうちに共有してる空気感を読んで仲間入りしないと、評価される土台に乗れない、もしくはそういう風に思わせる雰囲気があるとしたら、2020年代はそれを指摘していかないといけない。学生のころにこんな思いをしたことなかったの。働き出してからなのよ、こんなに邪険に扱われるのは!
正直、私を含め現代の女性教員も男子に負けたことがないタイプが多い気がしていて、連帯するのもなかなか難しい。女性教員を見渡すと、別に特にジェンダーを意識しない消極的現状容認型や、男子優位に気付いていて便乗して評価されようとするごますり型もいる。私はボーイズクラブ的文化をきちんと批判したい。今の時代のわきまえない女教師でありたい。
(堀内真由美『女教師たちの世界一周』筑摩書房、2022年)
発売日 : 2022-02-17
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サリンジャーと過ごした日々
週末なんとなくおしゃれできれいな映画を見たい気分で、好きなラジオパーソナリティーが『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』という作品について話していて、それで見に行ったらトキメキ感が最高で気に入った。それの原作本が、『サリンジャーと過ごした日々』。
数年前、本屋で文庫本を週に2,3冊買って読むほど村上春樹にはまっていたころ、その流れで彼が訳した『ライ麦畑で捕まえて』を読んだが、まったく性に合わなかった。太宰治(や、村上春樹)は、読者と合う合わないの相性が激しい、と言うけれど、サリンジャーもそういう類の小説家なのかしら。それともただ単に訳者と相性が悪かったのか。アメリカのティーンの必読書である印象はある。日本で言えばなんだろう。檸檬?舞姫?こゝろ?山月記?(現代文の教科書掲載作品オールスター!)
サリンジャーがあんまり得意じゃないのに、サリンジャーを扱う映画を見ちゃって大丈夫かと思ったけど、全然面白かった。小説とは筋がだいぶ違うけど、学校を卒業したばかりの理想と期待が高い若い女性がお仕事を頑張って、そこでの人間関係に刺激を受ける物語、とても好き。『あの図書館の彼女たち』も同じお話だった。うらやましいのは、彼女らがとてもかしこくてチャーミングで、さらに周りの大人も自立していて素敵なこと。『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』が魅力的なのは、大人たちが仕事に誇りを持っていて自信たっぷりにふるまっているけど、実は心の隅に弱さを抱えていてきっかけで崩れてしまう様子を描いているところだと思った。
あと、お洋服がめちゃ素敵。髪を伸ばしたくなるよね…。きれいにカールさせて結んでリボンやバレッタで留めて、ブラウスとカーディガン、セーターとブローチ、チェックのタイトスカートやフレアスカート…と、適当に挙げてみてるけどすごく好み。
そんなお嬢さんのボーイフレンドが、社会主義者で小説家志望なのが変にリアル。ナチュラルに男性性を押し付けてくるあたりも、あるあるっぽくてにやける。絶対に大学時代の彼氏の方がいい奴なんだけど、なんか違うものに惹かれるんだよな。
しかし、世の中には、働く若者をああいうプロフェッショナルな文脈で評価しようとしてくれる上司がいるものなのだろうか。適性に合わせた職務や配置をされた経験はないし、なにかポジティブな声掛けをされたこともない。一度でもいいから、職場でコマとしてではなくて、能力を評価される存在になってみたい、そういう気持ちがある。くすぶりを抱えていても、私も徐々に若手ではなくなってきてて、私は次に向けてどうしようかどうなりたいのかを考えながら、悶々とする。彼女は小説家になりたかった。私はなにになりたいのだろう。
(ジョアンナ・ラコフ、井上里・訳『サリンジャーと過ごした日々』柏書房、2015年)
発売日 : 2015-03-25
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三つ編み
2019年の夏、名古屋では「あいちトリエンナーレ」という芸術祭が開催されていた。
開催初日に行きたかったんだけど、ちょっと抜けられない所用があって行けなくて、でも絶対これは早くいかないと見れなくなると思った企画展があって、昼休憩中にスマホニュースを見たらやっぱり「表現の不自由展」は早々にクローズしそうな気配だった。
渦中の平和の少女像に紙袋をかぶせた人がいるという報道を見た。なぜそんなに敵視をむきだしにするのか。女の頭に紙袋をかぶせるなんて、暴力そのもの。直感でわかる。すごくその少女像が見たいと思った。安い航空券とホテルを探して、3日後とかそれくらいに私はソウルにいた。
弘大の戦争と女性の戦争博物館に、少女像があった。思ったよりもちいさくて、ちょこんと座っていた。ぱつんと切り揃えられたおかっぱと前髪の幼い印象だけど、だけどきっと実際はもう少しお姉さんな年齢の女の子、といったところか。横に空席の椅子があって、連帯を示すために腰掛けることができる。本当は座りたかったけど、一人だったから恥ずかしくて、かばんに入れていた「三つ編み」を置いた。
「三つ編み」は、理不尽なシステムと自分を縛る運命を前に、インド、イタリア、カナダの3人の女性が髪を介在して、人生を前に進める話。不可触民の母娘の信仰心に胸を打たれる。母の娘に対する愛情が強い。夫に嘘をついてでも、もう二度と会えないとわかっていても、土地に残した彼がどんな仕打ちに合うかわかっても、母は自分のような思いを娘にさせたくなかった。それは、不可触民であることに加えて女であることで二重に苦しんでいたからだろう。搾取されて屈辱を味わっても、「こんなめにあわされるのは不当だ」という怒りが消えないところが印象的。怒りって、飼いならされると消えるんだよね。いつまでも持っているとしんどいから。怒っても伝わらないから。
傾いた家業を救うために望まない結婚を強いられそうになるイタリアの女性。家族で助け合うって、そういうことなの?韓国のこの少女も、家族のため、地域のため、といって供出されたのだろう。植民地支配されている国の家父長制社会で、女にどれだけ自己決定権があっただろうか。男性性を抑圧された植民地の男たちに、従属的な立場に置かれた植民地の女たち。軍隊という超暴力的な装置に抑圧され続ける宗主国の兵隊が、彼女らを丁寧に扱えたはずがない。自分が宗主国の男から受けた屈辱を、植民地の男に話せるか。痛みを共有して一緒に怒ってくれると思えないから、責められるだろう無視されるだろう、結局モノ扱いされて自分がもう一度傷つくとわかっているから、口をつぐんだのだろうと想像する。
2017年の夏にフランスでベストセラーになったこの本の女性は黙らない。70年を超えて女性たちが声を上げていて、でも日本では少女像はいまだに紙袋をかぶせられていて、いったい何なんだ。
丸刈りにされた女たち
丸刈りにされた女たち――「ドイツ兵の恋人」の戦後を辿る旅 (岩波現代全書)
もう十年弱くらい前、偶然名古屋駅前のジュンク堂の書棚で見つけて、近くのカフェに入って読み始めたら、知らない事実ばかりに驚きつつ、その語り口が丁寧で登場人物へのリスペクトに満ちていて、心がひりひりしながらページをめくるのが止められなくて、夜遅くに読み終わるまでずっと居座った記憶がある。
表紙には、髪を刈られた女性が街中のベンチに腰掛けて、額に手を当ててうつむいている写真が掲載されている。太ももに置かれた右手は、ぎゅっと握られているようにも、少し緩んでいるようにも見える。震えているのではないかしらと思う。どんな気持ちなんだろう。
「他人の髪を本人の意思に反して奪うのは許されない暴力だ」と、著者はあとがきで述べている。数日前に読んだ小説『あの図書館の彼女たち』でも、対ナチ協力者とみなされた女性が、パリの街中で髪を切られ、胸をナイフで刺され、手首を骨折させられていた。この本を読んでいたから、あの小説のシーンにただ驚くというよりは、その暴力性に背筋が凍る気がした。
髪の毛は女性にとって大事なアイデンティティの一つだし、それを男性もわかっている。ヘアスタイルは女性のプライベートなものであるはずなと同時に、支配というか公共性もあるような気がする。(日本人女性は身分や年齢や婚姻の有無で髪の結い方を変えたというし)(髪の毛を自分のものとして物語を紡いだものとして、小説『三つ編み』が思い浮かんだが、まあそれはおいておく)女の大事なものを、男が無理やり奪うというのは、ただその個人の身に降りかかった偶発的な出来事ではなく、男性性が前提のシステムが後ろ盾になった暴力だと私は思う。フランス人女性がドイツ人男性と体の関係を持ったのは、自分の利益のため、貧困からやむにやまれず、純粋に恋に落ちたから、いろんな理由があるはずで、それを無視して私的制裁を加えていいはずがない。だが、これまでの歴史の中でそういった女性の一人ひとりの姿はきちんと記録されてこなかったし、これからもされないだろう、といった旨を筆者は語る。スティグマを背負って戦後を生きた女性たちを「対ナチ協力者」と片付けるのは、あまりにも暴力的で、男性目線というか支配者側の視線のみの基づく歴史の語り方だと思う。等身大の女性たちのライフストーリーも、もっといえば「正義感」の裏の負の側面だって記録されるべきだ。
話は少しずれるが、日本にも「パンパン」がいた。パンパンではないけど、地元の隣町には赤線があった、と祖母がよく言っていた。飾り窓地域を警察が地図に赤い線を引いたことから、そう呼ぶらしい。その華やかな地域の近くに映画館があって、祖母は映画を見て近くの中華屋でラーメンを食べるのが楽しみだったらしい。その中華屋にきれいなお姉さんたちが来ていることがあった、と。当時はかわいい既製品の服はなくて、祖母はお金持ちの友達に中原淳也の雑誌を借りて、自分で服を縫ったと言っていた。下着もなくて、ブラもショーツも自分で縫ったそうだ。その話を思い出して、ふと、セクシャルなものや経済的格差や、身体的な感覚や格差や憧れのようなものは、もっと露骨に日常生活に転がっていたのかもしれないとも思う。
そういえば祖母は、私の黒髪ロングヘアに異様にこだわっていた。与謝野晶子の短歌みたいだ、といつもほめていた。でもあの歌は鉄幹との道ならぬ恋に支えられた、若い女性の自惚れ、いや、はつらつとした自信を詠んだものだと思う。私の髪であると同時に、好きな男にほめられるための髪なのだ。少なくとも、男に刈られるための髪ではない。自分の苦労も恋心も葛藤も知らないような、赤の他人はお呼びではない。
(藤森晶子『丸刈りにされた女たち』岩波現代全書、2016年)
あの図書館の彼女たち
1939年パリ。アメリカ図書館の司書になった20歳のオディールが、快活で小気味よい。本が大好きなのが分かるし、同僚や利用者と信頼関係を築いていく様子がすてき。仕事にこんなに楽しく一生懸命打ち込めるのはうらやましい。そしてナチスに占領されたのち、パリの人々が愛国的になっていく様子にひりひりする。
ボーイフレンドと会うことが彼女の心を支えていて、警官の彼が見つけてきた空き部屋でこっそり二人で会うのだけど、きっとそれ、家主のユダヤ人を失った部屋だよな、と気づいてしまって、ふたりの幸せの無邪気さがつらい。
オディールの親友のイギリス人女性は、敵性外国人として街角でナチスに捕らわれたたとき、自分を逃してくれたドイツ兵と親しくなる。その秘密を告白されたオーディールは眉をひそめながらも、彼女が分けてくれる食料や嗜好品を受け取っている。きっと、ふたりとも誰かを思う気持ちで自分たちの精神を保てていることを知っているんだとも思った。誰かを好きになるときのきっかけや経緯って、他人には否定できないし、ただぼんやりとその気持ちへの共感があって、それが二人が親友である理由なのかな、とか。
オディールは、ユダヤ人利用者に図書館の本を届けるレジスタンスをしているのだけど、彼女が大切にしていた利用者を、実はボーイフレンドが逮捕していた。彼は素朴でナイーブで、自分の職務を全うすることが、そのユダヤ人を死に至らしめることを理解していない。
さらに彼がナイーブなのは、解放後のパリでナチスの協力者の女に暴力をふるったところ。ナチス相手に商いで利益を得ていた男が「フランス万歳」と寝返るのは構わないが、ナチスの雌犬になっていた女は許せないのだろう、街角でオディールの親友のことを襲撃し大けがを負わせる。
肩書きや価値観の暴力性に無自覚だ、「自分だってナチスに協力して、ユダヤ人を摘発したじゃないか!」と批判するのは容易だけど、被占領地で抑圧されてきた男性性が暴発するのは、どう評価すればいいんだろう。
オディールがパリを離れるときには、もちろん親友のこともあるけど、こういうシステムに裏付けされた無邪気な暴力を拒否したのではなかろうか。自分の幸せがこのナイーブさの上に成り立っていることに気付いて、その場にいられない気持ち。システムのせいなんだけど、それが自分の人生に紐づいているのって、本当につらい。
「ひどいことをしてしまったの」
「ああ、それなら、たいていのひとが理解できるな」
モンタナ州出身の負傷兵と交わしたやりとりは、パリでの幸せや苦しみを受け止めたのだと思う。胸のぬくもりを、綿シャツの柔らかさを感じた。安心できる気がした。彼女に必要なもの。なにか大きなことを乗り越えたあと、どんなに親しくしていた相手でも理解しあえないことは往々にしてある。アメリカ人の彼も同じような空白を抱えていて、そこにちょうどオディールが寄り添ったのだと思う。
このパリのアメリカ図書館、2020年に150周年を迎えた、実在する図書館。どんなふうにパリの街並みにあるんだろうか。行ってみたい。
(ジャネット・スケスリン・チャールズ(高山祥子・訳)『あの図書館の彼女たち』東京創元社、2022年)