丸刈りにされた女たち

丸刈りにされた女たち――「ドイツ兵の恋人」の戦後を辿る旅 (岩波現代全書)

丸刈りにされた女たち――「ドイツ兵の恋人」の戦後を辿る旅 (岩波現代全書)

 

もう十年弱くらい前、偶然名古屋駅前のジュンク堂の書棚で見つけて、近くのカフェに入って読み始めたら、知らない事実ばかりに驚きつつ、その語り口が丁寧で登場人物へのリスペクトに満ちていて、心がひりひりしながらページをめくるのが止められなくて、夜遅くに読み終わるまでずっと居座った記憶がある。

表紙には、髪を刈られた女性が街中のベンチに腰掛けて、額に手を当ててうつむいている写真が掲載されている。太ももに置かれた右手は、ぎゅっと握られているようにも、少し緩んでいるようにも見える。震えているのではないかしらと思う。どんな気持ちなんだろう。

「他人の髪を本人の意思に反して奪うのは許されない暴力だ」と、著者はあとがきで述べている。数日前に読んだ小説『あの図書館の彼女たち』でも、対ナチ協力者とみなされた女性が、パリの街中で髪を切られ、胸をナイフで刺され、手首を骨折させられていた。この本を読んでいたから、あの小説のシーンにただ驚くというよりは、その暴力性に背筋が凍る気がした。

髪の毛は女性にとって大事なアイデンティティの一つだし、それを男性もわかっている。ヘアスタイルは女性のプライベートなものであるはずなと同時に、支配というか公共性もあるような気がする。(日本人女性は身分や年齢や婚姻の有無で髪の結い方を変えたというし)(髪の毛を自分のものとして物語を紡いだものとして、小説『三つ編み』が思い浮かんだが、まあそれはおいておく)女の大事なものを、男が無理やり奪うというのは、ただその個人の身に降りかかった偶発的な出来事ではなく、男性性が前提のシステムが後ろ盾になった暴力だと私は思う。フランス人女性がドイツ人男性と体の関係を持ったのは、自分の利益のため、貧困からやむにやまれず、純粋に恋に落ちたから、いろんな理由があるはずで、それを無視して私的制裁を加えていいはずがない。だが、これまでの歴史の中でそういった女性の一人ひとりの姿はきちんと記録されてこなかったし、これからもされないだろう、といった旨を筆者は語る。スティグマを背負って戦後を生きた女性たちを「対ナチ協力者」と片付けるのは、あまりにも暴力的で、男性目線というか支配者側の視線のみの基づく歴史の語り方だと思う。等身大の女性たちのライフストーリーも、もっといえば「正義感」の裏の負の側面だって記録されるべきだ。

話は少しずれるが、日本にも「パンパン」がいた。パンパンではないけど、地元の隣町には赤線があった、と祖母がよく言っていた。飾り窓地域を警察が地図に赤い線を引いたことから、そう呼ぶらしい。その華やかな地域の近くに映画館があって、祖母は映画を見て近くの中華屋でラーメンを食べるのが楽しみだったらしい。その中華屋にきれいなお姉さんたちが来ていることがあった、と。当時はかわいい既製品の服はなくて、祖母はお金持ちの友達に中原淳也の雑誌を借りて、自分で服を縫ったと言っていた。下着もなくて、ブラもショーツも自分で縫ったそうだ。その話を思い出して、ふと、セクシャルなものや経済的格差や、身体的な感覚や格差や憧れのようなものは、もっと露骨に日常生活に転がっていたのかもしれないとも思う。

そういえば祖母は、私の黒髪ロングヘアに異様にこだわっていた。与謝野晶子の短歌みたいだ、といつもほめていた。でもあの歌は鉄幹との道ならぬ恋に支えられた、若い女性の自惚れ、いや、はつらつとした自信を詠んだものだと思う。私の髪であると同時に、好きな男にほめられるための髪なのだ。少なくとも、男に刈られるための髪ではない。自分の苦労も恋心も葛藤も知らないような、赤の他人はお呼びではない。

(藤森晶子『丸刈りにされた女たち』岩波現代全書、2016年)